けんちょむの生活記録

とりあえずこのまま何となく生きていくことの重みに耐えられずに廃人になってしまいそうなので、何か書かして下さい。

映画「トニー滝谷」の感想

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 トニー滝谷の本当の名前は、本当にトニー滝谷だった。 

 印象的な小説の冒頭部分です。市川準監督の「トニー滝谷」を観ました。原作の村上春樹作品の醸し出す何とも言えない読後感を、映画で表現できるのかという感じでしたが、実にいい線をいっている映画だと思います。それとは別に、宮沢りえが可愛すぎるというのと、イッセー尾形がいい味を出していて、さらに坂本龍一の音楽が映画全体の基調を構成している、完成度の高い映画だと感じました。 

 あらすじは、とても簡単です。滝谷省三郎という、戦時中に大陸でトロンボーン奏者として生きてきた男にできた息子が主人公、トニー滝谷でした。母親は、トニーを出産後に、すぐに亡くなってしまいます。なぜ彼は、日本人なのに「トニー」なのでしょうか。それは、省三郎が戦後世話になった米軍少佐に、そう名付けるように勧められたからでした。これからは米国の時代になるだろうということで。省三郎は「悪くない」と思いました。

 トニー滝谷は、孤独な幼少期を過ごしました。その名前のせいもあったし、親父はずっと仕事で家にいなかったからです。いつしか社会人になったトニー滝谷は、イラストレーターとして生計を立てるようになりました。給料は悪くありませんでした。彼はなによりも、無機質な機械の絵を描くのが得意でした。

 そんな生活の中、クライアントの女性を見初め、トニー滝谷は結婚することになりました。こうして、トニー滝谷は人生の孤独な時期を終えます。彼女は、配偶者として申し分ありませんでした。2人の生活に影を落とすものは、何一つありませんでした。ただ、彼女には数えきれないほどの服を買ってしまうという癖がありました。最初はそれを受け入れていたトニー滝谷ですが、彼女が購入する服のあまりの量に、そんなにたくさんの服を買う必要があるのだろうかと疑問に思うようになります。妻は、わかってはいるけど、買わずにはいられないのと、肩を落とします。

 ある日、妻は膨大な量の服を残して、唐突に亡くなってしまいます。まるで妻の影のようなたくさんの衣類に囲まれ、トニー滝谷は茫然となります。そしてトニーは、妻の体形にぴったりの女性を探すようになりました。妻を失ったことに慣れるための時間が欲しかったのです。ただ妻の残した服を、毎日自由に着て、身の回りの仕事をしてくれるだけでいい。トニー滝谷は、彼女に1週間分の妻の衣服を自由に選ばせ、家に持ち帰らせました。

 やがてトニー滝谷は、妻の衣類が、心の負担になっていることを感じました。持ち主を失って、ただ朽ちていく膨大な衣類たち。ついにトニーは、それらをすべて古着屋に売ってしまい、雇用した女性には、その1週間分の衣類は差し上げるので、私の依頼のことは、全て忘れてもらいたい、誰にも言わないでほしいと伝えます。

 そうこうしているうちに、唯一の肉親である省三郎も亡くなってしまいます。そして、親父が使っていたトロンボーンと、膨大なレコードだけが残りました。しばらくは、それらを妻の衣類をしまっていた部屋に保管しておきました。しかし、それらの遺品が次第に心の重荷になっていくことを感じたトニー滝谷は、結局全てを売ってしまいます。貴重なレコードが多かったので、いい金になりましたが、トニー滝谷にとってはどうでもいいことでした。そして、トニー滝谷は今度こそ完全に、ひとりぼっちになってしまうのでした。 

 こんなあらすじの映画です。何それ、どこにクライマックスがあるのと言いたくなる人もいるかもしれませんが、一般的な起承転結のあるストーリーの映画と比較して、形容しがたいモヤモヤとした感情が、心の中いっぱいに残ります。まるで言葉にならない膨大な感情が、言葉にならないまま、言葉にしてくれと言わんばかりに胸のなかにあふれるような感じです。

 テーマは「孤独」といったところでしょうか。あるいは「人との繋がり」といってもいいかもしれません。まあ、観た人の数だけ解釈はあるでしょう。幼少期のトニーは確かに孤独でしたが、最後のトニーはさらに孤独になっているように私は思いました。そもそも、幼少期のトニーは孤独だったのか。それは、誰かと繋がってしまったからではないかなと感じています。

 誰とも繋がっていなければ、そもそも人はそんなに孤独でもないのではないでしょうか。そして、人は誰かと関りを持つようになりますが、その関係が永遠に続くことはありません。どんな関係も、いつかは終わりを迎えます。そして、終わったからといって、全て「さようなら」というわけにはいきません。たくさんの思い、繋がりの記憶が心に残っています。それが妻の残した膨大な衣類に表象されていたように思います。

 トニー滝谷は、それらを妻と似た体形の女性に着てもらおうとしますが、それでも孤独が癒されることはありませんでした。考えてみれば、私たちも、形は違えど、そのような行為に覚えがないわけではありません。満たされない思いを、形を変えて満たそうとするのは、だれもが無意識でやっていることなのかもしれないと思います。代償行為とでもいえばよいのでしょうか。

 何かを失い、打ちひしがれても、それでもいつかは、トニーのように全ての服を売って、部屋を空け、思いが薄れていく日々を体験することになります。とてつもない喪失感です。ある人にとっては、癒しと呼べるのかもしれません。そうやって、いつかは自分も含めて、誰もに終わりがやってきて、繋がりは絶たれていくのでしょう。そういった暗喩を感じました。ではそもそも、人間の営為って何なのだろうと言いたくなります。生まれて、繋がって、繋がりが綻びてゆき、最後は亡くなって、全てが終わるという。そこに私たちはいろんな意味を与えて人生に色彩を加えようとするわけですが、他方でそれらの事実はいつも変わらず、私たちの視界の外でひっそりと息づいています。そういった事実を、どこかで意識して生きるか、それとも、知らないふりをして、あるいはそんなことを考えることもなく生きてゆくのか。

 少なくともこの映画は、普段意識せずに生きている世界に、そういった事実があるんだよと、後ろからハッと肩に手を置かれるような、そんな気持ちにさせてくれる映画でした。村上春樹原作の「トニー滝谷」は、彼の短編集である「レキシントンの幽霊」に編綴されていますが、あの乾いた文体でこうした深みに到達できるのは、尋常じゃないと改めて感じさせられました。